孤立感深む背信の大学生活

 今年から大学へ進学を果たした。決して元々入りたくて入った訳ではない、といえば語弊があるかもしれないが、不本意な形であった。家族や親戚は「もっと上へ」をモットーに私を後押ししてくれたが、何とも悉く落選の通告を受け続けた。実際、この今通っている大学への合格に関して「おめでとう」という感じではなく、合格通知も受験で関東へ行っているときに届いただけで、実に無機質なものであった。元来自信のない私は、臆病なのに高望みをし過ぎた部分もあるのかもしれない。しかし、臆病だからこそ、自信がなく、“卑”屈の精神を身にまとまっていたからこそ、高望みをしたとも言える。改めて、受験では、是が非でも勝ちたかった。努力をしてもどうにもならぬ事がある、と分かっていたので、どうしてもその大学受験で勝利者になってみたかった。結局、結果を残せず、渋々受かった大学へ行くことが決まり、今に至る。大学に通い始めて約2ヶ月。未だに馴染むことができず、英語などの講義内でペアやグループを組め、と言われても私だけが余り、遠くを見ていたら、我慢し兼ねた教授が「こいつも入れてやって」と言い、私も頭を下げて既に出来上がったグループに泣き寝入り。恥ずかしさも苛立ちも含む何とも言えぬ感情に浸り、スーパーの前の自動販売機で購めた炭酸飲料を口にしてその感情を拭い、強烈な喉越しの中で完全に消し去る。もう何年こんなことをして惨めな自分から目を逸らし続けていくのだろうか。

 理想を掲げて必死に駆け抜けても手に入れられないことが多いのが、現実である。偉い人が定義する“平等”という概念が存在するはずがない。救われぬ人も居れば、理不尽な出来事に身を滅ぼす人も居る。それをどうすれば「幸せ」

だと捉えることができるのだろうか。いつどうなってもおかしくない冷たい現実の中で、当然早く「幸せ」になりたいという焦りも出てくる。自分のためにも誰かのためにもいち早く自分が「幸せ」だと信じ込ませ、安心をさせたい。その「幸せ」を手に入れるために一刻も早く、結果や功績を大きな理想や夢の中で得たいという欲望が膨れ上がる。

 しかし、自分自身密かに描いている理想や夢などを容易く語ることはできない。前述した通り、理想や夢が叶わないことが常の現実。それを含め、多額のお金を払ってもらって大学に行かせて貰っている立場ともなると、「何のための大学なのか?」「お金を出している身にもなれ」と言われると、酷く落ち込むだろうし、尚更に切り出しづらい。

 SNSなどで第一志望であろう大学に合格し、意気揚々と自身のプロフィールに進学先を掲載する勝利者を僻み、推薦を受けて進学した連中(元々嫌だった者)を妬ましく思いながら、世の矛盾を解き、悲嘆に暮れる生活が、夜の暗闇の中で自分の心の中で独り吠えている。